亡くなった母の病室の引き出しから、便箋のつづりが出てきた。
めくると、母の姉、二人に宛てた手紙。短い感謝の言葉がならぶ。「産まれてからずっと可愛がってくれて、本当にありがとう」私には見せない母の妹の顔。8人兄妹の末っ子だった母は、自他ともに認めるほど甘やかされて育った。ちいさなころはもちろんのこと、高校を出て上京してからも、年の離れた姉たちは、ずっと母のことを気にかけてくれていたんだと改めて思う。
年末、伯母にお見舞いのお礼の電話を病室からかけたときのことだ。電話口に出たいという母の口元に携帯を寄せると、「ねえちゃん、ごめんね。あれだけ世話になったのに、ねえちゃんに何にもしてあげられない」とやっとの思いで途切れ途切れに言うと、涙を流した。
病気になってから1度も私の前で涙などみせることはなかった母が、泣いていた。私まで泣けてきた。血を分けた姉妹のつながりを思う。
伯母に宛てた手紙があるなら、私たちにも…と思いつつ探すが見つからない。なんで、おばちゃんたち宛の手紙はあるのに私たちにはないのよ…正直、うらめしい気分になる。
翌朝、自宅で葬儀の準備やら手続きやらを年老いた父と一つ一つ片付けていく。そして、母と病室で交わした「次男の卒業式と入学式にほ、母の着物を着て参列する」という約束のための着物探し。
が、母の部屋の箪笥をあけると、そこには普段着の着物ばかり。お稽古に着るようなものやいつも着ていたような着物が詰め込まれている。無造作に仕舞われたたくさんの帯や小物。この春の正装になりそうなものは、一枚も見つからなかった。
うちには全然余裕なんてなかったのに、母は自ら着道楽であることを悪びれることなく口にしていた。月賦で自分の着物や洋服をよく買い、デパートにはお気に入りのお店がいくつもあった。娘の私たちはいつも着た切り雀だったけど。
私は、お洒落で美しくどこにいても目立つ母のことを、好きでもあったし、嫌いでもあったんだと思う。おかげで私は自分の洋服は滅多に買わず、買うとしても赤札になっているものしか手にしない。
なんだ、お母さん、あれだけ着物は絶対に捨ててくれるなと言ってたくせに、みんなお弟子さんにあげちゃったんだ…気前と外面が人一倍いい母がしそうなことだ。
できない約束をしてしまったと私が後悔していると、父が、居間の箪笥も見てみろと言う。
居間の箪笥の前には、着物と扇子が一揃え。棺に入るときのためのものを母は自分で用意していた。踊りの会できていた黒の留め袖と母の名が大きく入った帯。この姿で、いろんな仕切りをしていたことを複雑な気分で思い出す。なんとも母らしい。
ここは触ってくれるなと母に言われているような気がして、私は、その向こうの箪笥の引き出しは開けずいたのだ。
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